月見岡神社について
月見岡神社は、「熊野古道 大日越え」の中腹にある熊野本宮大社の境外摂社です。
石祀に天照大神と月読命をおまつりしています。
境内やその周辺は樹齢300~400年ともいわれる巨木に覆われ、荘厳な雰囲気が漂っています。
月見岡神社の例祭
例祭は春、夏、秋(旧暦1月28日、5月28日、9月28日)と、年に3回行われており、
農作物の豊穣、作業の安全、家畜の安穏成育などをお祈りする農業神事の意味があります。
月見岡神社では、神職による祝詞奏上、お祓い、玉串奉納等の祭典が行われます。
その後、隣にある大日堂でも神式の祭典が行われ、釜で沸かしたお茶が振る舞われます。
また、月見岡神社の御札、笹や牛像符(例祭時のみ頒布)などをお頒かちしております。
農業が盛んだった昭和初期には、近郊の村からも300人近くの参詣者が訪れ、お米をお供え
する場所に困るほど賑わったそうです。また当時は、牛を連れて参詣する人も多かったと
いいます。
大日堂の石仏
大日堂内には、鎌倉時代の秀作である坐像の石仏が安置され、例祭時には扉が開かれます。
像身高は172㎝と紀州最大級の大きさで、材質は花崗岩であるため、他所で彫られたものを
運んできたと考えられています。中世の熊野信仰、そして明治の廃仏毀釈が徹底していた
本宮の地においてこのような石仏は非常に珍しく、昭和42年、県の文化財に指定されました。
南高梅と古城梅
熊野への入り口、口熊野と称される田辺は梅の産地として有名です。
全国的に知名度の高い南高梅をはじめ、古城梅(ごじろうめ)という収穫期の早い希少品種も
栽培されています。古城梅は、「青いダイヤ」と呼ばれるほど果実の鮮やかな緑色が美しく、
梅酒や梅ジュースに加工すると透明感のある味わいになります。
「ごじろ」にちなみ、平成27年5月16日、熊野本宮大社では「古城梅奉納奉告祭」が執り行われ、
長野古城梅振興会によって御神前で漬けられた梅酒と梅ジュースが奉納されました。
この奉納奉告祭を御縁として、毎年5月16日に長野古城梅振興会による古城梅の奉納が
行われることとなりました。
梅の日
天文14年4月17日(新暦1545年6月6日)、京都の賀茂神社の例祭で後奈良天皇が梅を奉納し、
五穀豊穣を祈る神事を執り行いました。
すると、たちどころに雷鳴が轟き、慈雨(=梅雨)がもたらされました。
平成18年、紀州梅の会(※)はこの故事にちなみ、本格的な梅の収穫が始まる時期でもある
6月6日を「梅の日」として制定しました。以来、紀州梅の会は、毎年梅の日に地元で
記念式典を開き、京都の賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)に
青梅と梅干しを奉納しています。
※紀州梅の会…紀州梅産地の行政・農協・梅干組合・生産農家代表で構成され、
紀州梅の宣伝・振興に取り組む団体です。
梅祭と梅漬けの儀
6月6日「梅の日」記念式典は、熊野本宮大社と須賀神社(みなべ町)で行われます。
式典では、神事として梅祭が斎行され、御神前にて梅漬けの儀を執り行います。
神事の終了後、梅漬けの儀で漬けられた梅は紀州梅の会が一旦持ち帰り、梅干しとして
完成させた後、改めて奉納されます。
熊野本宮大社の梅祭は、毎年午前10時より斎行され、紀州梅の会より梅干の振舞いも
ございますので是非御参拝下さい。
熊野権現のお告げ
一遍上人(1239~1289)は、鎌倉中期から室町時代にかけて日本全土に広まった浄土系仏教、時宗の開祖です。時宗の念仏聖たちは、南北朝から室町時代にかけて熊野の勧進権を独占し、それまで皇族や貴族などの上流階級のものであった熊野信仰を庶民にまで広めました。ではなぜ時宗では熊野を聖地としているのでしょうか。その答えが次の逸話にあります。
僧侶として学び、修行を深めた智真(後の一遍上人)は、念仏札を配る布教活動をしていました。そして文永十一年(1274)の夏、高野山から熊野本宮大社へ向かう途中で、一人の僧と出会います。智真はいつものように「信心を起こして南無阿弥陀仏と唱え、この札をお受けなさい。」と札を渡しましたが、その僧は、「いま一念の信心が起こりません。受ければ、嘘になってしまいます。」と言って受け取りません。「仏の教えを信じる心がないのですか。なぜお受けにならないのですか。」と尋ねると「経典の教えを疑ってはいませんが、信心がどうにも起こらないのです。」と答えました。 念仏札を拒否されたことに一遍はショックを受けますが、僧の言葉は理にかなっています。
この出来事から、智真は布教のあり方について苦悩します。そこで熊野本宮大社に着いた時、答えを求め、証誠殿の御前で祈り続けました。すると夢の中に、白髪の山伏の姿をした熊野権現(阿弥陀如来)が現れました。そして「一切衆生の往生は、阿弥陀仏によってすでに決定されていることなのです。あなたは信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配らなければなりません。」と、お告げになりました。このお告げを受けた智真は「我生きながら成仏せり」と歓喜しました。一遍上人が誕生した瞬間でした。
※熊野本宮大社の主祭神、家都美御子大神の本地仏は阿弥陀如来です。
昭和46年4月、大斎原に「一遍上人神勅名号碑」が建立されました。これは、熊野権現の霊告を受け、ついに独一念仏を開顕した開眼供養の碑です。当社では、1289年(正応二年)8月23日に入寂された一遍上人を偲び、御命日の毎月23日に、一遍上人月例祭を斎行しています。
よみがえりの聖地「熊野」
熊野は「よみがえりの地」と言われてきました。
古来より日本では、人々が生活を営む里に対し、
山は神や祖先の霊が宿る神聖な場所である、
という考え方があります。
中でも熊野は神々が籠る深山の霊場であり、
訪れた方は心魂が甦り、新たな気持ちになります。
「人生、出発の地」と言われる所以です。
また、有史以前から続く自然信仰、
熊野修験に代表される山岳宗教、
そして神=仏であるとする神仏習合の信仰形態が相まり、日本固有の宗教観を育む土壌ともなりました。
熊野三山(本宮・新宮・那智各大社)では、
熊野本宮大社の主祭神、家都美御子神を「阿弥陀如来」
熊野速玉大社の主祭神、熊野速玉男神を「薬師如来」
熊野那智大社の主祭神、熊野牟須美神を「千手観音」として
お祀りしています。
そして三山はそれぞれ、
本宮は西方極楽浄土
新宮は東方浄瑠璃浄土
那智は南方補陀落浄土
であると考えられており、 平安時代以降には熊野全体が浄土の地であるとみなされるようになりました。とりわけ本宮を中心とした地域は、「日本人の心の故郷」
「日本の原風景」と言われ、熊野の地を訪れた誰しもが、心洗われる聖地だと感じます。
世界遺産への登録
2004年(平成16年)7月、当社はユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産として登録されました。紀伊山地の自然に育まれた宗教文化は、世界でも類を見ない資産として非常に価値の高いものです。
登録資産目録(抜粋:当社関係)
1)熊野本宮大社
遺跡 1891年
熊野三山を構成する三神社の一つ
2)熊野本宮大社社殿
記念工作物 1801-1807年
熊野独特の建築様式を保つ
神社建築群
3)旧社地大斎原
遺跡 有史以前
熊野川の中洲に位置する
熊野本宮大社の旧社地及び
付属寺院の遺跡
「熊野詣」とは、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を参詣することです。平安時代、宇多法皇に始まる歴代法皇・上皇・女院の熊野御幸は百余度に及び、身分や老若男女を問わず「蟻の熊野詣」といわれるほど大勢の人々が熊野を訪れました。熊野詣のために通った道が「熊野古道」と呼ばれる参詣道です。
数多の参詣者は、京を起点に淀川を下り、天満橋の辺りで陸に上がり、
天王寺~堺・岸和田~和歌山~御坊の海岸沿いを歩き、
熊野の玄関口、すなわち「口熊野」と呼ばれた田辺まで下り、
後に「中辺路」と呼ばれる道を通って、本宮大社に参詣しました。
その後、熊野川を船で下り、熊野川河口にある新宮の速玉大社に詣でました。そして新宮からは海岸線沿いを辿り、那智川に沿って那智大社に参拝し、
再び新宮を経た後、熊野川を遡行して本宮大社に戻り、都への帰途につきました。
往復約600km、約1ヶ月の旅程を歩くのが熊野詣でした。
地図の「紀伊路」は本来、京都から熊野三山に至る、熊野古道全体を指します。
しかし後世、田辺から本宮大社までの道を「中辺路」、田辺から那智勝浦・新宮を通る道を「大辺路」と区分するようになり、高野山から本宮大社に至る路は「小辺路」、 伊勢から新宮、那智を経て本宮大社へ至る道は「伊勢路」と呼ばれるようになりました。
九十九王子
九十九王子とは、熊野詣の先達を務めた修験者により、12~13世紀にかけて
組織された一郡の神社です。 本来、熊野古道の近隣住民が在地の神を
祀っていた諸社を「王子」と認定し、熊野詣の途中で儀礼を行う場所としました。
”九十九”というのは実際の数ではなく、数多く存在することの比喩表現です。
大阪を起点に、熊野本宮大社を経由して新宮、那智勝浦の各大社へと至る参詣路には、百以上もの王子社があるといわれ、その一つである本宮の発心門王子社を入ると、そこからが熊野の聖域となります。
そして伏拝王子杜に至れば、谷の下方に本宮大社の偉容が目の当たりに拝され、
あまりのありがたさに人々が伏拝んだという逸話も残されております。
熊野牛王神符「オカラスさん」
俗に「オカラスさん」とも呼ばれる熊野牛王神符(牛王宝印)は、
カラス文字で書かれた熊野三山(本宮・新宮・那智各大社)特有の御神符です。
カラス文字の数は、各大社によって異なります。
当社の熊野牛王神符は、八十八の烏が見事にデザインされており、
木版で手刷されたものを熊野宝印と認めています。
カマドの上(現今はガスの元栓)にまつれば火難をまぬがれる
門口にまつれば盗難を防ぎ
懐中して飛行機、船にのれば、船酔い災難をまぬがれる
病人の床にしけば、病気平癒となる
このように、熊野牛王神符は、熊野信仰の人々をあらゆる災厄からお守り下さる御神符です。
さらに時代が進み、鎌倉時代になるとご神符は「誓約書」ともなり、江戸時代には「起誓文」の代わりとしても用いられました。
これは古くから「熊野権現への誓約を破ると、熊野大神の使いである烏が一羽亡くなり、
本人も血を吐き地獄に堕ちる」と信じられてきたことが背景にあります。
現在、当社で執り行われるご婚礼の誓詞の裏に御神符を貼布しているのも、
このような由縁によります。
由来
その起源は明らかではありませんが、次の①②に由縁するものと云われています。
①神武東征の八咫烏の故事
②当社の主祭神、家津美御子大神(素盞鳴尊)と、天照大神との高天原における誓約
①について、『古事記』には、次のような物語が記されています。
神武天皇が熊野の村に着いた時、突如大きな熊が現れ、神武天皇とその軍勢はみな毒気にあてられてしまいます。そこへ、神々からお告げを受けた高倉下が馳せ参じ、ひと振りの天剣を神武天皇に献上しました。神武天皇がその太刀を受け取るやいなや、熊野の山の荒ぶる神は、ひとりでに斬り倒され、倒れていた軍勢も、みな正気に戻って起き上がりました。
そして、高御産巣日神は神武天皇に「ここから奥は、荒ぶる神が非常に多いのです。今、天からあなたのもとへ八咫烏を遣わしましょう。そうすれば、八咫烏があなたを導いてくれます。」とおっしゃいました。こうして、神武天皇は八咫烏の後について大和(現在の奈良県)橿原へたどり着き、都を築かれました。
本宮大社では、毎年1月7日の夕闇迫る時刻、古来より牛王神符刷り始めの神事として有名な
八咫烏神事(県無形文化財)が斎行されています。
②について、『古事記』や『日本書紀』には、素盞鳴尊が天照大神と誓約をなされた時の物語が描かれています。その際、素盞鳴尊が自らの潔白を証明するため、天照大神の御身につけられた玉飾りを噛み、吹きだした霧からお生まれ になったのが、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命であると記されています。
素盞鳴尊は、この故事により正邪を正す誓約の神として尊崇されるようになりました。
そして、「牛王神符」 は素盞鳴尊の別名である「牛頭天王」の御名の一部を受け誕生したと云われています。
今からおよそ1300年前の天武帝白鳳11年、『東牟婁郡誌』に「熊野僧徒 牛王宝印奉る」と文献上初めて記され、源義経と藤原泰衡の誓約や、関ヶ原の戦いにおける家康と諸大名の誓紙、赤穂四十七士の連判状にも使われました。
本宮勝守の由来
上述の神話でお生まれになった、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命は、御名にちなみ勝利に導く神として信仰を集めてきました。人に勝つことではなく、「正勝吾勝」 つまり自分自身に勝つ神として、平清盛・源頼朝・北条政子・豊臣秀頼・徳川吉宗 など歴代武将の尊崇が特に篤く、また歴代皇族の熊野行幸も百余度に及びました。 本宮勝守は、素盞鳴尊のお力を借りて、あなたがあなた自身に勝つためのお守りです。 素盞鳴尊は当社の主祭神として第三殿に、天照大神は第四殿に、正勝吾勝勝速日之忍穂耳命は大斎原の第五殿にお祀りされています。
八咫烏について
八咫烏とは、当社の主祭神である家津美御子大神(素盞鳴尊)のお仕えです。日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したという神武東征の故事に習い、導きの神として篤い信仰があります。
八咫烏の「八咫」とは大きく広いという意味です。八咫烏は太陽の化身で三本の足があります。
この三本の足はそれぞれ天・地・人をあらわす、といわれています。
天とは天神地祇、すなわち神様のことです。地とは大地のことで我々の住む自然環境を指します。
つまり太陽の下に神様と自然と人が血を分けた兄弟であるということを、二千年前に示されていたのです。
日本の歴史における八咫烏の出現はきわめて古く、『古事記』『日本書紀』『延喜式』をはじめ、 キトラ塚古墳の壁画や福岡県珍敷塚古墳横穴石室壁画、千葉県木更津市高部三〇号噴出土鏡、世界最古の油絵である玉虫厨子(法隆寺蔵) の台座にも見ることができます。
蹴鞠名人の熊野詣
平安時代に蹴鞠は貴族社会で大流行し、中でも蹴鞠の名人と言われた藤原成道という貴族は、蹴鞠上達のために五十回以上も熊野詣をしています。また、藤原成道は日記の中で、熊野大神の御前で「うしろまり」の名技奉納を行ったことについても語っています。
サッカーと八咫烏
みなさんもご承知のとおり、JFA財団法人日本サッカー協会のマークは八咫烏です。
神武天皇の故事に習い、 よくボールをゴールに導くようにとの願いが込められていると考えられます。今も、JFAの方や、日本代表サッカー選手たちが必勝祈願でご参拝されています。