「熊野」は、和歌山県南部~三重県南部の地域を指します。和歌山県南部に「熊野三山」と呼ばれる三つの大きな神社があり、熊野三山へお参りするための道を熊野古道といいます。 | |
熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社を合わせて熊野三山といいます。
熊野の神々は自然信仰に根ざしていましたが、奈良~平安時代にかけて熊野は仏教・密教・修験道の聖地ともなり、神=仏であるという考え方が広まりました。
その影響を受けた三山は結びつきを深め、同じ12柱の神々(=仏たち)をおまつりするようになります。熊野三山の神秘性はますます高まり、平安時代の末には「浄土への入り口」として多くの皇族や貴族がお参りするようになりました。浄土へお参りし、帰ってくるということは、死と再生を意味します。そのため熊野三山は「よみがえりの聖地」として、今なお多くの人々の信仰を集めています。
詳しく知る
当社の主祭神は、家津美御子大神(スサノオノミコト)です。
歴史を遡ると、古代本宮の地に神が降臨したと伝えられています。
三本の川の中州にあたる聖地、大斎原に社殿が建てられたのは、崇神天皇65年(紀元前33年)のことでした。奈良時代には仏教を取り入れ、神=仏としておまつりするようになります。
平安時代になると、皇族・貴族の間に熊野信仰が広まり、京都から熊野古道を通って上皇や女院の一行が何度も参拝に訪れました。
室町時代には、武士や庶民の間にも熊野信仰が広まっていました。男女や身分を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さから、大勢の人が絶え間なく参拝に訪れる様子は「蟻の熊野詣」と例えられるほどでした。
明治22年の大洪水により、大斎原は大きな被害を受けました。当時は能舞台などもあり、今の8倍の規模を誇っていましたが、明治24年に上四社が現在地へ移されました。
今、大斎原には中四社、下四社、境内摂末社の神々がおまつりされています。
平成23年9月、紀伊半島大水害により、当社は再び大斎原や瑞鳳殿などに大きな被害を受けました。しかし、平成26年には瑞鳳殿が再建されるなど以前にも増した復興を遂げ、現在に至ります。
詳しく知る
当社のいたるところに見られる3本足のカラス。日本サッカー協会のシンボルとしても有名な、八咫烏です。八咫烏は、日本書紀・古事記の「神武東征」という物語に登場します。
これは神武天皇が、宮崎県(日向)から奈良県(橿原)に都を移し、大和朝廷を開いて初代天皇に即位するまでを描いた物語です。神武天皇が熊野に到着された時、神の使者である八咫烏が奈良まで道案内をしたというエピソードから、熊野三山に共通する「導きの神鳥」として信仰されるようになりました。
詳しく知る
境内が桜色に染まる美しい季節、4月13日~15日にかけて行われる例祭です。15日は、当社の神々が旧社地大斎原へ、年に一度の里帰りをされます。また農業神事としての側面もあり、祭典を通じて一年の豊穣をお祈りします。
4月13日・・・湯登神事・宮渡神事
日本最古といわれる湯峰温泉で身を清めた稚児の頭に、神を降ろす神事です。
額に書かれた赤い「大」の字は、神が降臨している証。
祭典の間、稚児は神事以外で地面に足をついてはいけないという決まりがあります。
そのためウマ役の父兄が稚児を肩車し、「熊野古道 大日越え」という約3.4㎞の険しい山道を歩き本宮大社へと向かいます。
稚児を務めた子どもは健全に育つとされ、祭典がすべて終わった後も3年の間、叱る時には頭に触れてはいけないといわれています。
4月15日 本殿祭・渡御祭
15日の早朝、本殿前には「挑花」と呼ばれる菊の花飾りがお供えされ、厳かに本殿祭が行われます。その後、神霊の宿った神輿を中心に、熊野御幸を再現した行列が大斎原へと向かいます。
大斎原では、大和舞・巫女舞・御田植神事・護摩焚き等の神事が行われます。