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熊野古道の歴史

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「熊野詣」とは、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を参詣することです。平安時代、宇多法皇に始まる歴代法皇・上皇・女院の熊野御幸は百余度に及び、身分や老若男女を問わず「蟻の熊野詣」といわれるほど大勢の人々が熊野を訪れました。熊野詣のために通った道が「熊野古道」と呼ばれる参詣道です。

数多の参詣者は、京を起点に淀川を下り、天満橋の辺りで陸に上がり、
天王寺~堺・岸和田~和歌山~御坊の海岸沿いを歩き、
熊野の玄関口、すなわち「口熊野くちくまの」と呼ばれた田辺まで下り、
後に「中辺路」と呼ばれる道を通って、本宮大社に参詣しました。
その後、熊野川を船で下り、熊野川河口にある新宮の速玉大社に詣でました。そして新宮からは海岸線沿いを辿り、那智川に沿って那智大社に参拝し、
再び新宮を経た後、熊野川を遡行して本宮大社に戻り、都への帰途につきました。
往復約600km、約1ヶ月の旅程を歩くのが熊野詣でした。

地図の「紀伊路」は本来、京都から熊野三山に至る、熊野古道全体を指します。
しかし後世、田辺から本宮大社までの道を「中辺路」、田辺から那智勝浦・新宮を通る道を「大辺路」と区分するようになり、高野山から本宮大社に至る路は「小辺路」、 伊勢から新宮、那智を経て本宮大社へ至る道は「伊勢路」と呼ばれるようになりました。

九十九王子クジュウクオウジ

九十九王子とは、熊野詣の先達を務めた修験者により、12~13世紀にかけて
組織された一郡の神社です。 本来、熊野古道の近隣住民が在地の神を
祀っていた諸社を「王子」と認定し、熊野詣の途中で儀礼を行う場所としました。
”九十九”というのは実際の数ではなく、数多く存在することの比喩表現です。
大阪を起点に、熊野本宮大社を経由して新宮、那智勝浦の各大社へと至る参詣路には、百以上もの王子社があるといわれ、その一つである本宮の発心門王子社を入ると、そこからが熊野の聖域となります。
そして伏拝王子杜に至れば、谷の下方に本宮大社の偉容が目の当たりに拝され、
あまりのありがたさに人々が伏拝んだという逸話も残されております。