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熊野牛王神符

熊野牛王神符「オカラスさん」

俗に「オカラスさん」とも呼ばれる熊野牛王神符(牛王宝印)は、
カラス文字で書かれた熊野三山(本宮・新宮・那智各大社)特有の御神符です。
カラス文字の数は、各大社によって異なります。
当社の熊野牛王神符は、八十八の烏が見事にデザインされており、
木版で手刷されたものを熊野宝印と認めています。

goouinカマドの上(現今はガスの元栓)にまつれば火難をまぬがれる
門口にまつれば盗難を防ぎ
懐中して飛行機、船にのれば、船酔い災難をまぬがれる
病人の床にしけば、病気平癒となる

このように、熊野牛王神符は、熊野信仰の人々をあらゆる災厄からお守り下さる御神符です。
さらに時代が進み、鎌倉時代になるとご神符は「誓約書」ともなり、江戸時代には「起誓文」の代わりとしても用いられました。
これは古くから「熊野権現への誓約を破ると、熊野大神の使いである烏が一羽亡くなり、
本人も血を吐き地獄に堕ちる」と信じられてきたことが背景にあります。
現在、当社で執り行われるご婚礼の誓詞の裏に御神符を貼布しているのも、
このような由縁によります。

由来

その起源は明らかではありませんが、次の①②に由縁するものと云われています。

①神武東征の八咫烏の故事
②当社の主祭神、家津美御子大神(素盞鳴尊)と、天照大神との高天原における誓約

①について、『古事記』には、次のような物語が記されています。

神武天皇が熊野の村に着いた時、突如大きな熊が現れ、神武天皇とその軍勢はみな毒気にあてられてしまいます。そこへ、神々からお告げを受けた高倉下が馳せ参じ、ひと振りの天剣を神武天皇に献上しました。神武天皇がその太刀を受け取るやいなや、熊野の山の荒ぶる神は、ひとりでに斬り倒され、倒れていた軍勢も、みな正気に戻って起き上がりました。
そして、高御産巣日神は神武天皇に「ここから奥は、荒ぶる神が非常に多いのです。今、天からあなたのもとへ八咫烏を遣わしましょう。そうすれば、八咫烏があなたを導いてくれます。」とおっしゃいました。こうして、神武天皇は八咫烏の後について大和(現在の奈良県)橿原へたどり着き、都を築かれました。

本宮大社では、毎年1月7日の夕闇迫る時刻、古来より牛王神符刷り始めの神事として有名な
八咫烏神事(県無形文化財)が斎行されています。

②について、『古事記』や『日本書紀』には、素盞鳴尊が天照大神と誓約うけひをなされた時の物語が描かれています。その際、素盞鳴尊が自らの潔白を証明するため、天照大神の御身につけられた玉飾りを噛み、吹きだした霧からお生まれ になったのが、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみことであると記されています。
素盞鳴尊は、この故事により正邪を正す誓約の神として尊崇されるようになりました。
そして、「牛王神符」 は素盞鳴尊の別名である「牛頭天王ごずてんのう」の御名の一部を受け誕生したと云われています。
今からおよそ1300年前の天武帝白鳳11年、『東牟婁郡誌』に「熊野僧徒 牛王宝印奉る」と文献上初めて記され、源義経と藤原泰衡の誓約や、関ヶ原の戦いにおける家康と諸大名の誓紙、赤穂四十七士の連判状にも使われました。

本宮勝守の由来

上述の神話でお生まれになった、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみことは、御名にちなみ勝利に導く神として信仰を集めてきました。人に勝つことではなく、「正勝吾勝」 つまり自分自身に勝つ神として、平清盛・源頼朝・北条政子・豊臣秀頼・徳川吉宗 など歴代武将の尊崇が特に篤く、また歴代皇族の熊野行幸も百余度に及びました。 本宮勝守は、素盞鳴尊のお力を借りて、あなたがあなた自身に勝つためのお守りです。 素盞鳴尊は当社の主祭神として第三殿に、天照大神は第四殿に、正勝吾勝勝速日之忍穂耳命は大斎原の第五殿にお祀りされています。

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